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ベル X-1はアメリカの有人実験機で、世界で初めて水平飛行で音速を突破したロケット機である。 == 開発経緯と音速突破まで == 第二次世界大戦の影響もあり、1930年代から1940年代にかけてレシプロエンジンは急激に進化し、それに伴い航空機の速度も右肩上がりに増加していった。しかし航空機の速度が700km/hを超えるあたりになるとプロペラの先端や翼上面の空気流が音速(マッハ 1)に近づき、衝撃波が発生して空気の性質が激しく変化するようになる。抗力が急増すると共に、機体が異常な振動(バフェッティング)を起こし、場合によっては操縦不能、空中分解ということもあった。これがいわゆる音の壁である。 レシプロエンジンの場合これがスピードの限界であり、音速飛行は夢の話であった。しかし1940年代になると、各国でジェットエンジンが開発されたことにより、音速飛行は現実味を帯びてきた。 アメリカのベル社は1942年にアメリカ初のジェット戦闘機XP-59を開発し、1943年にはNACA(NASAの前身)に対して強力なジェットエンジンさえあれば超音速機を製作することは可能と表明していた。しかし、超音速飛行が可能とは言われていたが第二次大戦の影響で肝心の研究予算がなかなか降りず、陸軍航空隊資材部から研究予算が降りたのは1944年1月になってからであった。これにあわせるようにNACAは高速飛行審議会を設立した。 1944年3月にはNACAと陸軍航空隊ライトフィールドの資材司令部技術部、海軍航空局の3者が今後の方針について検討をおこなった。その席で陸軍は今すぐにでもマッハ1を超える航空機の開発を要求。一方海軍はデータを取りながら慎重に開発を進める安全策を主張した。その結果、陸軍と海軍はそれぞれ別個に超音速機の開発をNACAと協力しておこなっていくこととなった。 陸軍は5月に超音速実験機計画を最優先に指定し、以下ダイブによる遷音速飛行、P-80による遷音速飛行という3段構えで計画を進めていくこととした。機体開発メーカーはノースアメリカン社とリパブリック社の2社が候補として挙がっていたが、この2社は超音速機の開発を行う余裕はなかった。こうした中、11月にベル社の主任設計技師ロバート・ウッズは、この計画の重要人物であったイーズラ・コッチャー少佐に直接機体の製作を申し出て契約を取り付けた。 その後高速飛行審議会と航空技術補給本部のコッチャー少佐とベル社は協議を重ね、1944年末には高速実験機計画 MX-524 の主な仕様を決定した。MX-524の当初の目標は、遷音速の研究で超音速飛行も視野に入れておくというもので、自力での離着陸を行えるなどの条件が含まれていた。しかしエンジンについて、ロケットエンジンに比べ非力だが燃焼時間の長いジェットエンジンにするか、ジェットエンジンに比べ強力だが燃焼時間の短いロケットエンジンにするかは決まっていなかった。胴体の形状は、当時存在した超音速飛翔体である12.7mm弾の形状をモデルとし、これに翼をつけたような形状となっていた。そのため風防も胴体と一体になっており、視界は決していいものではなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「X-1 (航空機)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Bell X-1 」があります。 スポンサード リンク
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